“集団無視”をイジメではないとする”長谷川豊”氏のブログ記事への批判


毎日暑いですね。
今回は、他人のブログ記事(いじめ問題)に対する記事です。
(興味ない方はスルーしてね。)

フリーアナウンサー長谷川 豊氏のブログを読んでの意見です。
なかなか切り口が大胆で目を引くタイトルが多いので、長谷川氏のブログはたまに読んでおりました。

岩手の自殺をただ「イジメ」と報じるのは違う  長谷川豊公式ブログ

今回、↑このエントリーについては異議がありまして投稿することにしました。

 

“集団無視”  “からかい” その程度のことはいじめではない

長谷川氏の考え方が一般化されると、救われるべきものも”いじめではない”と除外されてしまう危険があるのではないかと思います。

下記引用箇所は長谷川氏のイジメについての価値観です。
イジメをどう定義するかという問題になります。

一つ目に、「本当にいじめか?」という点です。

「からかい」「集団無視」など、現在は「いじめだ」と認識されているものは多々あります。それらは価値観によりますが、私はその程度のものを「イジメ」だとは認識しません。中には「イジメられた側がイジメだと言えば全部イジメです」というもはや何を言ってるのか分からない範囲の暴言も見受けられるのですが

A君という人間がいたとして
そのA君は話しかけてもネガティブなことしか言わない
イジワルな反応しかしない
やる気もない
思いやりもない
会話は自分の興味ある話しかしない
みんなの会話の流れも全部止めてしまう

そんなA君といったい誰が積極的に話をしようとするでしょうか?しかし、もともとネガティブなA君。A君は担任に言うでしょう。「先生、みんなが俺を無視するんだよ。イジメを俺は受けているんだよ!」

断じて違います。それはA君自身の問題なのです。みんなは積極的にイジメようと思ってなんかいません。はっきり言って会話に混ぜたら迷惑だから会話しないようにしているんです。それを「イジメ」というのは暴論以外何ものでもありません。「正常な反応」というのです。

 

まず、「集団無視」ってその程度のもの、なんでしょうか?

クラス全員から無視される。
一時的ではなく持続的に半年、1年間、ずっと集団無視され続ける。
こんな状況、想像してみてください。

相当きついはずです。
小中学生くらいなら。

僕は小学校当時似た状況に陥ったことがあります。

おき君のような変わり者は、そりゃ集団無視もされるやろ?

・・・・・・・・沈黙・・・・・・・・・・・

僕のことはさておき、どこにでも有りえる話でしょう。

確かに、「あの子、嫌いだから口きかない」って、こんなレベルの個人的な無視はいじめではないと思います。

が、

“集団無視”にまで至る過程では、それを画策している首謀者がいる場合が多いのではないでしょうか。
例えば、あることないことを吹き込み関係ない第三者まで巻き込んで、クラスから孤立させ精神的に追い詰めていくのです。

学校というある種、閉鎖された社会で集団無視って精神的に辛いです。
学校に行くのが苦痛で苦痛でたまらなくなる。

例えば、遠足という行事があります。
先生から、

「明日遠足なので、班を作ってください。今から仲良い子で4~5人くらいずつの班を作ってください~」

というシチュエーション。
自分はどの班にも入れず一人きりの状況になります。
居心地悪く一人突っ立っている僕。
先生が「どの班か、おき君を入れてあげて~」

シーン・・・・

先生が怒り気味になり、結局は強制的にどこかの班に入れられます。
遠足に行っても、もちろん一緒に行動なんかしてくれません。
一応、入れてもらった班なので後ろから遠慮がちについていくと

「あ~ムシムシ」
「なんかウットウシイなあ~」

なんてことを仲間同士で聞こえるように言うんですね。
遠足という名の苦行です。

・・・・・ああ、目から水が・・・・・・・・・・・・・・

まあ、こういうことが学校生活の中で毎日のように繰り広げられるわけです。
(実際には、集団無視だけで終わらずエスカレートしていくパターンも多いと思います。)

小学生の子どもから見える世界。
その中で学校という存在はとても大きい。
大人が職場でいじめられても辞めるという選択肢も考えることができます。
しかし、小学生にはそんな発想はないのです。

それを、影響力あるメディア側の人間が、「その程度のこと”イジメ”だとは認識しない」
と言うのは、現在、精神的苦痛を感じている子を救うという視点からは、大いに問題ではないかと思うのです。(長谷川氏はアクセス数で日本記録を出したほどのパワーブロガーみたいです。)

線引きが難しく発覚しづらい、という特徴があるのが、いじめ問題です。
長谷川氏は”いじめ認定”を慎重にすべきと言います。
これは実際に起きた事象がいじめがどうかを認定するかどうかの問題です。
それはもちろんそうなのですが、その前提となる”イジメの定義”を狭く解してしまうと救済されるべきものも救済されなくなる危険があります。

同じく、”からかい” も継続的なものであればイジメとなる要素は十分にあると思います。

 

 

ネガティブな子が集団無視されるのは、本人の問題

また、長谷川氏は、A君というネガティブなことしか言わない架空の人物を挙げています。
A君はその特徴ゆえ、集団無視されても、”イジメではない” ”A君の問題” “いじめと言うのは暴論”と長谷川氏は言い切ります。
そもそも、長谷川氏からすると、”集団無視”はいじめではないのですから、A君がポジティブだろうと、イジメじゃないんでしょうが、こんな例を出すのは、不適切です。

イジメることを正当化する根拠を与えてしまいかねないです。

僕からすると、いじめる側が言う、「あいつウザイし、キモイからいじめられて当然」 という発想に近づく危険を感じます。
いじめられるようなキッカケというのは誰でも一つや二つあるのです。
身体の特徴、話し方、性格、家庭環境・・・・
短所や欠点があること=集団無視されても仕方ないのでは決してない。

多くのイジメにおいてこういった短所は責任・原因ではなく、ただのキッカケに過ぎないと思います。
それゆえ、いじめられている側がいなくなったりしても、いじめる側はまた別の人間をターゲットとするのです。
つまり、いじめ問題の本質はいじめる側の病的ともいえる心理状態にあると僕は考えています。
いじめることを快楽に感じたり、ストレス解消にしたりするのは異常な心理状態ではないでしょうか。

教師や周りの大人たちはA君が意地悪な反応しかしなければ、それは時には叱り、教育しなければならないでしょう。
場合によっては、発達障害などがあるかなど診てもらう必要があるかもしれません。
しかし、その短所ゆえに集団無視されるのはA君の問題、と公衆の面前で言ってはならないと思います。
教師はもちろん、周りの大人も、アナウンサーのような声がでかくて影響力ある人間も!

長谷川氏は、何度もいじめ問題をリポートしてきたとおっしゃてます。
いじめの実態について人より多くの実例を含む情報を持ってらっしゃるわけです。
そういった方が、この認識なのは非常に残念です。

 

 

まずは、逃げる

僕は、いじめ問題の対策について、まず逃げ道を作ることが大切だと考えています。
ダメージを受けている本人が自力で解決することは困難です。
もちろん、イジメてる側の病的な行動をやめさせるのが一番なのだけども、
それは今の学校では難しい。
だから、まずは救済。
逃げることができるシステム、逃げやすい仕組みを作る。
具体的には、例えば、いじめGメンのような、いじめられている側が助けを求めることができる機関を作り、周知しておく。
ただ、相談だけじゃなくて、学校にも出動して調査し、救済措置を提案する実行部隊です。
クラス変更、転校とか休校とか、何らかの提案をして、学校や家庭との仲介にも立ってくれる。
もちろん、傷害・恐喝など刑法犯に該当する行為の認定ができれば、学校と相談の上、警察にも通報する。

いじめ防止対策推進法なんてのもできましたが、
理念的なものを作るだけじゃなくて、具体的に救済する対策まで落とし込まないと、現場の子供は救われないと考えています。

 

 

 いじめ問題の本質は動物の本能なのか?

さかなクンがいじめについてコラムを書いています。
魚社会のことにたとえられています。

広い海へ出てみよう

東京海洋大客員助教授・さかなクン

中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。

(朝日新聞2006年12月2日掲載)

問題の本質は、閉鎖的環境・社会のストレスにある、とそう思わされます。
僕の場合の首謀者は小学校6年の時に両親が離婚して大阪へ転校していきました。
家庭内で大きなストレスを抱えていたのかもしれません。
いじめ問題が社会問題化する少し前くらいの時代です。

今でも少しトラウマのようなものがあるかもしれない、と思うことがあります。
息子の学校の行事で小学校の教室の中に入るのにも変に緊張したりするのです。
学校に行かないといけないと思うと、が気が重くなります。
ええ年して・・・・と自分でも思いますが・・・
警察署に入る方がよっぽど気が楽だったりします。

また、小学校・中学校という多感な時期のイジメは、人格形成や考え方にも大きな影響を及ぼすことがあるかと思います。
だから、あんたそんな変な子なの?という突っ込みはご容赦を(笑

ご覧いただきありがとうございます。あしからず。